露西亜亭異聞

徒屋 疎(あだやおろそか)


一九三八年二月、アンドレ・ブルトンはメキシコ・シティ郊外のコヨアカンにある 「青い家」を訪れた。かつてニューヨークのロックフェラーセンターを、共産主義と 階級闘争を賛美するフレスコ壁画で飾った画家ディエゴ・リベラが、その絵の前面に レーニンと並べて描いた革命家を、いまはただ一人で構図の中心に置くかのように、 無数の草花と絵画にうずもれた家の中にかくまっていた。一年あまり前、不吉な 暗雲に覆われたヨーロッパを予言者さながらに追放され、革命政権が保守勢力との 角逐をなまなましく演じていたメキシコに上陸したトロツキーは、たえまない スパイの監視にさらされつつ、モスクワとベルリンを相手に絶望的な闘いを ―たとえ彼自身はいささかも絶望していなかったにせよ―この地で挑んでいたので ある。

うわべだけを見れば、平和で牧歌的な日々だった。フランスからやってきた シュールレアリスト詩人の滞在中、リベラを交えた三人は散歩や旅行に足を伸ばして は、政治や芸術をめぐる議論を戦わせた。二十世紀屈指の散文家であり、ソヴィエト の指導者であった時すでに「プロレタリア文化」なる画一的なスローガンを否定する ほどの見識をもっていたトロツキーは、ブルトンとともに「何物にも従属しない 革命芸術のために」と題するマニフェストを起草したりもした。

トロツキーへの「無限の賛嘆」を胸にブルトンは帰国した。やがてリベラはその 政治的きまぐれが原因でトロツキーと不和になり、白髪の革命家は「青い家」を 去って、最後の、つまり成功した暗殺者を迎えることになるアべニーダ・ビエーナの 家に移るのだが―さて、我々は何か忘れていはしないだろうか?   メキシコ内陸部 の、埃りっぽい風が石だらけの通りを吹きすぎる小さな街の風景の中に、祖国を 逐われた亡命者の非力な要塞を護衛するメキシコの警官やアメリカのトロツキスト たちが夕闇に浮かび上がるシルエットに混じって、見る者を当惑させる類いの エキセントリックな顔の輪郭を見過ごしてしまったのではなかろうか?   一見した ところ国籍不明のこの人物、ロシヤ語とフランス語を巧みに操るかと思えば妙に 芝居がかった所作で相手の意表を突いたりもするこの謎めいた男こそが、我々の 主人公である。彼の名は―いや、彼の本名が何なのか自信をもって言える者は誰も いなかった。彼はいつもあだ名で、ジュラーヴリ―ロシヤ語で「起重機」―と 呼ばれていた。

ゲ・ペ・ウのエージェントや新大陸のスターリニストの無気味な眼をたえず感じ させられるコヨアカンの人気ない通りに、仲間のトロツキストに混じっていてさえ もどこかしら孤独なおのれの影が落ちているのを「ジュラーヴリ」は眺めた。強い 陽差しのもと、影はくっきりと地面に灼きつけられ、のっぺらぼうな顔で彼を見つめ かえした。

「ぼくは呼ぶ   墓堀人たちを   ぼくは呼ぶ   暗殺者たちを   ぼくは呼ぶ   死刑執行人たちを・・・」

風に殴られる耳にかすかな声が聞こえてくる。予言めいたその声は、彼の頭の中に 響くハンマー、研ぎすまされた鎌だ。それは、「ロベール・デスノスの声」だ。

ジュラーヴリは、十年以上前にパリで知った「眠りの詩人」を、いまでも まざまざと思い出すことができた。

シュールレアリストたちが集まったカフェのソファにデスノスが体をうずめ、 催眠状態に入っている。傍らのブルトンがノートを差し出すと、強く握りしめた ペンの先から、幻想的でもあり、奇妙に日常的でもある言葉が蟻のように這い 出した。自動記述を華麗に実演することのできる魔術師デスノスこそは、シュール レアリスムの「眠りの時代」をリードするチャンピオンだった。

「ロベール・デスノスの声」という詩は「暗闇」と題された作品の最初の部分 だが、「疲労と薬物とワイン」からに生まれたものだとデスノスは言っていた。 一度ならず彼とともに幻覚実験を試みたことのあるジュラーヴリにとって、シュール レアリスムの手法が時として未来を言い当てる予言装置になるという経験は、 お馴染みのものだった。ただ、預言の言葉は曖昧で解読困難な夢のテクストであり、 成就した時初めてそれと悟るしかないのだが。

「暗殺者たちが   ぼくに挨拶する   死刑執行人たちは   革命の加護を祈る・・・」

ロベール、きみはなんとユーモアにあふれていたことだろう。苦笑いに顔を歪め、 ジュラーヴリは立ち上がって歩きはじめた。真っ黒な影が壁や敷石や歩道を踊り ながらあとに続いた。

彼がある不可解な理由で慌ただしくコヨアカンを出発する姿を我々が見届けるの は、ブルトンが帰国の途に就いて間もなくのことである。彼はいったいどこへ去って しまったのだろう?   それを探る前に、我々はしばらく立ち止まって過去を振り 返ってみることにしよう。

メキシコ―我らの主人公がかつて深く関わった一つの名前、トロツキーとも無関係 ではなく、彼の宿敵であるモスクワの独裁者すら深い関心を持って口にした名前が、 未完に終わった映画を通してこの国と結びついている。ただし、一九三〇年十二月、 「メキシコ万歳」のロケのために入国したセルゲイ・エイゼンシュテインの一行の 中に、ジュラーヴリの姿を見い出すことはできない。「メキシコ」の出資者で、 やがて撮影中止命令の宣告者となる社会主義作家アプトン・シンクレアに会うため、 カリフォルニア州パサデナに向かったエイゼンシュテインと別れて、我らの主人公は 一時ニューヨークにとどまったからだ。その理由は―いや、それを語っている余裕は ない。

「戦艦ポチョムキン」によってつとに著名な存在となっていたマルクシストの 映画監督と、ジュラーヴリとの出会いの場面を掘りおこすためには、さらに時間を 遡るとともに、舞台をモスクワに移す必要がある。一九二八年、「ジェネラル・ ライン」(このフィルムは改作されて「古きものと新しきもの」というタイトルで 公開された)を撮影中のエイゼンシュテインは、革命十周年記念行事の一環として 催された、日本の演劇公演に足を運んだ。少々の日本語を習い覚えた赤軍時代から 関心を持っていた「歌舞伎」の実物をついに目のあたりにする機会が訪れたのだ。

息をのむ舞台だった。役者陣の堂に入った演技は観客を圧倒した。すすり泣きの 効果音に合わせて切腹する「忠臣蔵」の猿之助。歯を黒く染め、年増女の化装をした 松蔦。しかし、二世市川左団次を座長とする一座の中で、エイゼンシュテインの 目に「最良の俳優」として映ったのは、当時まだ二十代の河原崎長十郎だった。

「するとあなたは、複雑な約束事に満ちた歌舞伎の作劇術が、あなたの計画して おられるトーキー映画にとって恰好の方法を提供していると言われるのですね!」

お目当ての日本の俳優を楽屋裏に訪ねた映画監督の前で、通訳の青年が興奮を 抑え切れないらしい声で叫んだ。いかにも堅苦しい翻訳口調におかしみをおぼえ ながら、隣にいる長十郎を無視せんばかりの勢いでまくしたてるこの青年を、 エイゼンシュテインは興味深げに見つめた。

自分では日本人だと言っていたが、同じアジアでもトルコ系遊牧民を思わせる 特異な顔立ちの中に、少年のようなナイーヴさと世慣れた落ち着きが同居している。 年令もはっきりとは見きわめ難いが、瑞々しい声が永遠の青年といった印象を与えて いる。聞けば、モスクワで一座と合流するまでの数年間をフランスで送り、パリに 多くたむろする亡命ロシヤ人からロシヤ語を学んだのだという。見た目ほど若くは ないのかもしれなかった。

エイゼンシュテインは、いつか撮るはずのトーキー映画に長十郎をキャスティング したいという希望を述べた。素顔だと幼くもみえる歌舞伎役者は、羞じらうように 黙って笑うばかりだった。撮影スタジオに戻るべき時間になり、映画監督は劇場を 出かかった。通訳の青年がすばやい動きで彼の歩みをさえぎったのは、そのとき だった。

「重要なお話があります。ぼくはパリの支部から派遣されました。レフ・ ダヴィドヴィッチのことです・・・」

先程とは打って変わり、低い調子の冷やかとさえいえる声だった。 エイゼンシュテインは我にあらず体が震えるのを感じた。すでにその名は危険すぎる ほど危険だった。三月に公開したばかりの映画「十月」の編集作業中、突如 スタジオに現れてトロツキーの登場するシーンをカットするよう勧告した共産党 書記長の姿を、エイゼンシュテインはまざまざと思い出した。しかし彼は、自分の 信条に忠実であろうとするかぎり、この初対面の東洋人の言葉に耳を傾けざるを 得ないだろうことをよく知っていた。

一九二九年、パリのエイゼンシュテイン。一九三〇年、ニューヨークの エイゼンシュテイン。一九三二年―一九三五年、ヨーロッパを彷徨うトロツキー。 一九三七年、メキシコに上陸するトロツキー。

我々のほかに誰が知り得よう、かれらの歴史的な軌跡にジュラーヴリの歩みが ひそかに寄り添っていたことを。いや、この二人だけではない。アンドレ・ ブルトン。ロベール・デスノス。アンドレ・マルロー。ベルトルト・ブレヒト。 バーナード・ショー。H・G・ウェルズ。ウラディーミル・マヤコフスキー。 フセヴォロド・メイエルホリド。こうしたきらびやかな名前の森の中を、 ジュラーヴリは多くの困難に耐えながら、人知れずかきわけていかねば ならなかった。

世界を股にかけた突飛な空想譚のような放浪行のあと、彼が唐突に姿を現して 最後の冒険を演じる舞台となったのは、極東の満州帝国だった。もはや彼があだ名で 呼ばれることはなかった。ここでは記す必要のない無数の偽名が、彼の足どりを 消してしまっている。彼は歴史から忘れ去られることを願っていた。おそらく彼は シベリヤの果ての草原で、時折りフレーブニコフのことを思い出したかもしれない。 革命ロシヤの不安を体現するかのように、放浪者として生き、浮浪者として死んだ 詩人―彼の古いあだ名のもとになった散文詩「ジュラーヴリ」の作者である男を。

ジュラーヴリ―起重機―クレーン―鶴。

不気味な静寂に包まれたシベリヤ国境に程近い隠れ家で、海を渡ってきた同志と 会合するときなど、いまや日本人らしく短歌をつくることもある彼は、戯れに 「鷺嘴屋鶴鳴」と号して仲間を笑わせたりもするのだった。