※筆者注
本稿は、「あしたのジョー」原作マンガに関する
徹頭徹尾真面目くさった冗談である。
「あしたのジョー」の呪縛的な魅力、それは矢吹丈を、
つまり物語を捉え導く得体の知れない情念が、
理屈では割り切れない絶対的な生の条件として我々を答
えのない問いに誘いつづけることに因る。「何が彼をそ
うさせたか」という紋切り型に要約できないでもないそ
の問いは、むしろ我々に自分自身への息詰まる対面を強
いるかのように、「ジョー」の記憶の中でくすぶりつづ
ける。ジョーを駆り立て我々をゆさぶるその謎めいた情
念はいわば肉化した観念であり、徹底して抽象的で
あるがゆえに、物語と我々に鎮静することのない不安と
ダイナミズムを与えている。ジョーの苦悩も情熱も、彼
の個人的な性格や経験に帰することはできない。そうし
た条件を超えた説明不可能のものとしてあるがゆえに、
それらは感動的でありえたのだ。
しかし、そうしたことが本稿の主題なのではさらさらな
い。ここでなされようとしているのは、「あしたのジョ
ー」とその主人公を魅力あるものにしていた観念性・抽
象性を剥ぎ取り、具象性で限定するという妄想的な企て
である。すなわち、「あしたのジョー」と呼ばれる「昨
日のない男」にあえて昨日を与えることにより、もう一
人のジョー・ヤブキ、もう一つの「あしたのジョー」を
語ってみようということなのだ。
「あしたのジョー」とは、騒ぎやめない「ケモノの血」
をめぐる物語である。本稿において、「血」は「血統」
の意味に読み替えられ、無根拠な妄想を喚起することに
なるだろう。つまり、ここで語られるもう一つの「あし
たのジョー」は、アメリカの物語なのだ。この妄想は、
生まれ育ちが明かされない主人公の名前が英語のスラン
グでアメリカ人の男を意味するということによって、些
かも正当化されはしない。ここでのジョーは、何の理由
もなく、アメリカ人の混血児として規定される。
アメリカ人とは、旧世界(ヨーロッパ、アフリカ、アジ
ア)からやってきた雑多な移民だけではない。「矢吹」
という日系らしき姓がネイティブアメリカンをも暗示す
ることに注意されたい。あらゆる種類の「アメリカ人」
の「血」がジョーの一身に流れ込み、不穏にざわめてい
る。彼はアメリカに生きるすべてのマイノリティと血を
共有するがゆえに、特定のマイノリティに自身を同一化
することができない。いわば「アメリカの孤児」として
生きざるをえないのだ。さらに、カラードの血が一滴で
も混じっていればカラードとみなされることも忘れては
ならない。根無し草の反逆児というイメージが彼につき
まとうのは当然であろう。
物語の冒頭で我々の主人公が登場した舞台は、ドヤ街す
なわちゲットーであった。最初のクライマックスとなる
ドヤ街の反乱は、歴史的な事実としての黒人暴動とパラ
レルである。それらは60年代にアメリカの諸都市で頻発
したが(中でもワッツ暴動は有名である)、80年代にな
ってからのロサンゼルス暴動も記憶に新しいところであ
ろう。暴動はすべて当然のごとくに鎮圧された。ジョー
たちの反乱と敗北は、元の「あしたのジョー」において
は寓話のように見える。しかし、このもう一つの「あし
たのジョー」では、生々しい現実なのだ。
ドヤ街の「同志」と別れを告げたジョーの前に、はじめ
てカラードでない人間が現われる。葉子と力石。ジョー
が彼らに具体的な「敵」を見いだしたのも無理はない。
しかし、事はそう単純ではないのだ。なぜなら富豪の令
嬢でありながらボクシングなどという野蛮な興業にかか
わっている葉子と、野性味と繊細さをあわせもつ力石と
は、一種の翳りを共有しているように見える。なぜか。
葉子はおそらくフランス系南部貴族の末裔である。スカ
ーレット・オハラ(はアイルランド系だが)を思い出し
てもらえばよい。南北戦争でヤンキーに敗れたはしたが、
精神は決して屈伏しなかった誇り高い貴族精神の持ち主、
それが葉子だ。これに対して力石は、その無骨な風貌に
がっしりした体格、頑固な気性…まさしくアイルランド
移民の典型像といえる。とすれば、葉子と力石を精神的
に結び付けているのがカトリック信仰であることは自明
であろう。彼らはカラードではないが、WASP
(White Ango-Saxon Protestant)には属さず、
彼らと敵対して同盟を結んでいるのである。
ここで、ボクシングとマイノリティという問題について
触れておこう。ボクシングの華といえばヘヴィー級であ
り、超人的な強さを誇る黒人チャンピオンが思い浮かぶ。
アメリカのスポーツ界が黒人にとってどういう意味を
もつかここで述べるまでもあるまいが、
昔はやや事情が違
った。他のスポーツのことは知らないが、少なくともア
メリカにおけるボクシング史の初期におけるスターボク
サーは、必ずしも黒人ではなかったのだ。
資料が手元になく不完全で申し訳ないが、ユダヤ系、ア
イルランド系、…、黒人、といった変遷をたどっている
のだ。つまり、あるマイノリティの社会進出に抵抗が大
きいときボクサーになる者が多く、アメリカ社会への同
化が進むと、同化の度合が低い別のマイノリティが代わ
ってボクシング界に流入してくるというサイクルが繰り
返されたのである。リングとは、エスニシティの葛藤の
舞台なのだ。
ボクシングの直接的な闘争性が、「ジョー」のエスニシ
ティの葛藤という主題にいかに似つかわしいかは言うま
でもあるまい。例えば、力石がなぜ「階級」(作品では
重量級にシンボライズされているが)を降りてまでジョ
ーと決着をつけることにこだわったのか。もちろん、彼
の真の闘いは、カラードとの闘争と和解という儀式を済
ませた後にようやく始まるはずだったのだ。
丹下段平の出目は、ある意味で力石よりも興味深い。彼
の過去はボクシングの歴史の始源と重なるかのように思
える。彼はジョーとは違った意味で流浪者であり、亡霊
のようにゲットーに現れ、異人として住み着き、ジョー
をゲットーから外の世界へ橋渡しする役割をになう(な
みだ橋とは段平自身なのだ)。そして禿頭に鷲鼻という
外貌。そう、彼はまぎれもなくユダヤ人である。誰の言
葉だったか、「世界の空隙」に存在し、共同体に属せざ
る者として非生産活動に従事する都市の漂白民、それが
段平の肖像だ。
さらに,こうも言える。彼はジョーの中に久しく待ち望
んでいた救世主を見いだし、ジョーを世界に売り出す
伝導師の役をつとめ、ついにはジョーを犠牲としてリン
グという祭壇に捧げるに至ったのではなかったか。(も
ちろんこれは、段平にとってみればそう解釈されたかも
しれないということにすぎないが。)
ゲットーの外部に連れ出されたジョーは、様々なマイノ
リティの体現者と出会う。韓国系の金竜飛、イタリア系
のカーロス・リベラ(名前はスペイン風だが、キャラク
ターからいってイタリアっ子であろう)、そして最後は
チカーノ(メキシコ系のスパニッシュ)のホセ・メンド
ーサ。彼らとの試合は、マイノリティ同士の醜い抗争で
はない。逆に、身体を投じた真剣な遊戯によってエスニ
シティの葛藤を荒い清め、真の連帯を結ぶための儀式な
のだ。ジョーは力石との試合を通してそれを学んだ。ダ
ブルクロスカウンターとは、痛みと痛みを交換してはじ
めて可能な深いコミュニケーションの術なのだ。相手の
攻撃を避けてはならない。突きつけられたものを本気で
受け止め、痛みに耐えぬくこと、こちらの痛みを手加減
せずに相手にぶつけること、それがジョーの唯一無二の
言葉だった。
ジョーがそうやって言葉をかわしてきたすべての相手が
ホセとの試合のリングサイドに駆けつけ、ゲットーの仲
間とともに輪をつくること、それは「あしたのジョー」
の「あした」を祝福する無上に美しい光景である。だが、
霞んでいくジョーの目にこの光景は見えていただろうか。
いや、見えていなくてもかまいはしない。ジョーを衝き
動かしてきたのは、何よりも「敵」と闘うことへの欲望
であり、仲間との連帯は二次的なことにすぎなかったの
だから。
なぜジョーが最後に闘う相手がホセだったのか。アメリ
カ最大のマイノリティがスパニッシュであるからか。こ
こで問われねばならないのは、さしあたって「マイノリ
ティの問題」「差別の構造」「アメリカの病理」などと
呼びうる真の「敵」とジョーはいかなる形で闘うことが
できるのか、ということである。そしてジョーは作品と
ともにこう答えるであろう−ただボクシングによって。
すなわち、「敵」はボクサーの姿をとらねばならない。
しかし、ジョーが最後に闘う相手(チャンピオン)がホ
セでなく、たとえばWASPであったとしたら、作品は陳腐
で浅薄なものになっていただろう(「良いインディアン」
に対する「悪い白人」を思い浮かべればよい)。作品中
にWASPのキャラクターがまったく登場しないのはきわめ
て周到な配慮というべきである。
ここに「あしたのジョー」の最大の困難がある。ジョー
の捨て身のボクシングは、マイノリティ同士の連帯は実
現できるにせよ、姿を隠しつづける「敵」に肉迫するこ
とはついに不可能なのだ。この解きがたい矛盾の前に、
ジョーは盲目的にホセと闘うしかなかったのだろうか?
ジョーは結局「敵」の姿を捉えることはできなかったの
だろうか?
いや、そうではない。少なくとも我々は、不在の中心と
して作品に求心力を及ぼしていた「敵」の姿を、最後の
最後にはっきりとこの目で見た。「敵」は嘘のようにあ
っさりとその姿をさらけ出し、
ホセの髪の毛に感染する
ことにより出現をひそかに予告していたとはいえ、誰も
予想し得なかった生々しさで我々を、いや作品をさえも
不意撃ちしたのだった。
「真っ白に燃え尽きる」ことへの狂おしい執着、それが
何を意味するかをカラードであるジョーは魂の奥底で知
り抜いていたのではなかったか。それを単に贖罪や犠牲
と呼んで済ませてはならない。不可能でしかありえない
はずの矛盾した欲望を実現した証しとして、最後のシー
ンはある。その深い悲劇性に、我々はただ胸を衝かれる
ばかりだ。